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大宮高島屋ジュンク堂へ行って

そうだ、ここにいる人たちは

分かろうとして本読んでる力みがまるでない。

分かろうとしてない。

わかる分からないの二元論で判断していちいち反応してない。

遊んでるような

撫でているような余裕がある。

量子論だ。

失敗する確率も考慮されてる。

力が入ってない。

ただなぞっているだけの様な感じがする。

本を立ち読みしていて感じたのは、本があるのと立ち読みしてる時にある、他には何もない空間だ。

手に取って考えられる余裕がある。

—ここまで、メモ

今日は、エンベデッドシステムスペシャリスト試験の参考書を買いに行こうかなーと思って、なんとなーく大宮まで足を伸ばしてみました。
楽しかったー。ゆっくり歩いて、癒やされた一日になりました。ありがてぇ。

なんとなくPythonの参考書も立ち読みして、買おうかなーと思ったけど、なんか違うなって感じてやめました。


最近息苦しいというか、行き詰まっている感じがして、どうしたらいいのかなーと悩んでいました。
今日は午後の2時ぐらいからゆっくり川沿いを散歩して、本当に半歩ずつぐらいのゆっくりペースで歩いて、だんだん体と一緒に呼吸のペースもゆっくりになって癒やされました。

あるきながら、またジャッジメンタルになっているなーとふと自分のセルフトークを振り返りました。ジャッジメンタルって、判断しすぎているって意味です。書籍でいうと、「ずっとやりたかったことをやりなさい」や「最高の休息法」に書かれています。いちいち起こったこととか思い出したことを判断していることをジャッジメンタルって言います。

ジャッジメンタルになっていると、疲れるんですよね。
「あのときああできなった・・・」「なんであれできなかったんだろう。」ばっかりだったからです。

「反応しない練習」って本を立ち読みして、あーそうだ心のなかでしてる判断しても流していいんだ。と思い出しました。
「どんな本でも大量に読める「速読」の本」って本を読んだ時を思い出しました。わかろうとして読まないでどんどんめくるって書いてありました。

そこで、自分の性格とか真面目な自分って態度自体が、行動一つにしても感じ方も、考えものだなーと思いました。

話戻すんですけど、エンベデッドシステムスペシャリスト試験の参考書めくってて、問題一つ一つに真面目にいちいち、できたできないを判断しているから気持ちの余裕、気持ちの余白がなくなって疲れちゃうんだろうなーと思いました。

インテリな人ってきっと勉強と言う言葉から、別に特別な力みとか意味とか意義とか感じてないんだろうなーと。

問題の一つであっても当たるときもあるし、当たらないときもある。そう考えると正解するときも不正解なときもあるから、その両方の余白をどれだけ用意できるかってだけだなーと、腑に落ちました。

仕事にしろ勉強にしろ、仮説や課題にどれだけ空白を用意できるかだけなんだなと。


ただ確率の重ね合わせなんだなーと。
この後にスピリチュアル系の本も読んで、途中まではうんうんとうなずけて、ワクワクした祈りだけしましょうと書いてあったのは違和感に感じました。
ワクワクとかは良くて、それ以外がダメだと判断したとしたらネガティブな感情が湧いたときに、判断が生じちゃうので強い願いや強い祈りも、それはそれで逆にできそうな感じしないと直感で感じました。

撫でるぐらいの感じで、祈るのが気持ちよさそうと想像していました。